「『断念せよ』、と」
「<神>をですか、虚無をですか」
「そうではない。答えを出す、そのことをだ」
「答えられないからですか?」
「答えが問を誤らせるからだ」
「生きる意味」とは何なのか。どうせ死ぬのに、なぜ生きなければならないのか。
考えたって仕方がないけれど考えられずにはいられず、悩み、苦しみながら生きている方に読んでほしい一冊です。
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「老師と少年」あらすじ
生きるとは?死ぬとは?私とは?
悩み苦しむ少年が、九夜にわたり、老師を訪ね問答を繰り返す物語。
虚無もまた神と同じ。
「だが、そのとき、私の眼に、あの若者が映った。私をここに連れてきた若者、彼はそのとき隠者を見上げたまま、手足を縛られたもののように身じろぎもしなかった。
その姿を見たとき、私はふいに思ったのだ。
これは<神>を信じる人と同じ姿ではないのか。虚無とは<神>の別の名で、虚無を悟りすべてを捨てるとは、<神>を信じて従うことと変わらぬのではないか。」
ある夜、老師は少年に語った。過去に人生の答えを求めて、彷徨い歩いたことを。
ある日、老師は、人生の真理を語る神殿の聖者を訪ねた。
「神に使えよ」聖者は言った。だが、信じることが出来なかった。理解しようとすればするほど分からないものを、「信じよ」の一言で片付ける傲慢さに耐えられなかった。
次に、若者に連れられて、洞窟の隠者を訪ねた。
「答えはない!」「何もかもが虚無の淵にかかる幻なのだ」「欲望を捨てよ。意思を捨てよ。思考を捨てよ。行動を捨てよ。」「川が海に流れ込むように、いつか最後のときが我々を虚無に流し込むまで、目覚めながら眠り、生きながら死ぬのだ」
老師は隠者の魅力に取り憑かれそうになった。老師を動かす力があった。ただ、それは、出来なかった。
隣の若者が隠者を見る姿が、神を信じる人の姿と同じだったから。
神は信じないのに、虚無は思考停止状態で信じる恐ろしさ
↑紹介した場面が、この本の中で1番ハッとしたところ。
自分は、神を信じれるものなら信じたいけれど、どうも信じることができない。神を通じて群がっている人を見ると、なんだか自分には合わないなと思ってしまう。神との契約は、神と私の直接関係であり、他者は関係ないとは言え、なんだかどうも信じることができない。
だけど、この世は虚無だ、結局は死んでしまうんだ、何をやっても風を掴むようなものだという虚無感は信用できる。なんのために生きなきゃいけないのかという疑念が晴れず、いつも地面から3cmくらい浮遊しているような感覚で生きている。
しかしそれもまた、神を信じる姿と同じだという。それに気づいたことが、何よりもショックだった。神は信じられないのに、どうして虚無は信じられてしまうのか。神も虚無も一緒だと、どうして気が付かなかったのか。それは思考停止ではないのか。
「生きる意味より死なない工夫」
神は信じない。虚無も信じない。では、どうして生きていったらいいのか。生きていることと、死んでいることの間に、どんな違いがあるというのか。ふっとこのまま蒸気のように消えて失くなってしまえるのであれば、それはそれでありがたいとさえ思ってしまうのに。
しかし、老師は言った。
「生きる意味より死なない工夫だ。」
世の中には、考えても仕方がないことがある。生きる意味とか、私とは何かとか、それは考えても仕方がないことだろう。他にも、考えるべきことはあるのだから、それを考えればよい。
と思ったけれど、それは、「痒さ」に似ていて、自分では、どうしよもないからこそ、辛いものではないのか。断念せよ。老師はいう。果たして、自分には、そんなことが出来るのだろうか。たぶん、自分には出来ないだろう。
生きる意味も、私とは何かも、断念する方法も、すべて分からない。結果「分からない。」なのだが、そこに辿り着くまでに見えた景色は、これまで見たことのないものだった。