ニューヨークからフィラデルフィア美術館へ。映画ロッキー撮影地!

ニューヨーク旅行記 28日目

7月30日(火)

5時30分起床。やった!

フィラデルフィア美術館へバスで向かう

準備して、地下鉄へ。バスターミナルへ向う。

バスのターミナルで、一緒に行ったおばちゃんのチケットがないことが発覚する。

おばちゃん「チケットがないかもれない・・・。」
ぼく「え。でも、再発行できると思うんで、オフィス行きましょう。まだ15分くらいありますよ。」
おばちゃん「いざとなったら、私をおいて先にいって!後ので行くから!おいていって!」
ぼく「いやいや、なんとかなりますって。」
おばちゃん「いやいや、おいてって大丈夫だから!大丈夫だから!」

なんとか出発時間の7時に再発行完了。

「間に会ったー!」

おばちゃん、視界から消える。あ

焦って、走って、階段でこけてる。

「お尻が痛い。お尻が痛い。ははは」と笑いながら、乗車完了。

チケット無くすし、階段でこけるし、それでも、なんだかすっごく陽気だし。
おばちゃんって、やっぱ、かわいいな。としみじみ感じる。

フィラデルフィアに到着。

アメリカでは、ニューヨーク以外都市に行くのは初めてだという事に気がつく。

「ニューヨークから出た事ない。」って、ちょっとカッコイイかもしれない!とテンション上がる。

バスでフィラデルフィア美術館に向かう。

フィラデルフィア美術館で伝説のデュシャンの作品を見る

デュシャンの作品を見る。へえ。

何がしたいんだこの人は!

インド美術の彫刻を見る。

どうしてこの時代のインドの人たちは、今でもそうだけど、やたらと色んな装飾をしているのだろうと疑問に思う。

腕に輪っかつけてたり、イヤリングしてたり、頭になんか乗っけてたり。

素っ裸のギリシャ彫刻とかに比べると、明らかにデコレーションが多い。なんでだ。

相変わらず、素人的な見方しかできない。
すごい!とか、どうしてだろう!なんだこれは!とか。
でも、そういう心の動きから全ては始まるんじゃないだろうか。

ただ、この感動をどうやって次に繋げていけばいいのかがよく分からない。

僕は、自分の知識や経験を、釈迦や、キリストや、ムハンマドのように、伝道していきたい。

彼らと違って、神の教えではないけれど。
「パスを出す人に、ボールは一番集まる。」
という言葉が好きだし、僕は、どんどんパスを出していきたい。
でも、具体的に、どうしたらいいのだろう。

ダミアン・ハーストと岡本太郎が好きだから、彼らの作品、人生を見ながら、美術史を学んでいくのが一番近道かもしれない。

フィラデルフィア美術館はロッキー撮影地!

美術館の階段で、ロッキーのテーマを口ずさみながら、階段を駆け上がる。そして、ポーズ!
みんなもやってるし、恥ずかしくないや!
やっぱり、人が自分のことをどう見ているのかというのが気になる。
ここには、読まなきゃいけない”空気”なんかないのに、ないはずなのに。

近くの公園に移動して、ベンチで休む。風がきもちいい。

黒人の少年たちと、卓球勝負をする。

黒人でも、シャイな子はいる事に気がつく。
黒人がみんな、リズム感いい訳じゃないし、ラップしてる訳じゃない。
っていうか、黒人ってひとくくりにするのも、よくないのかもしれない。

バスに乗って、ニューヨークに戻る。

ニューヨーク有名ステーキ店へ

アメリカにいるのに、アメリカ的なもの食べてないな。と、思い切ってステーキを食べることを決意する。

小泉首相とか、ジャン・レノとか、トム・クルーズとか、有名人がいっぱい来る店に入る。おいしい。

どうして日本であんなにいっぱい、理不尽な嫌な思いをしなきゃいけなかったのかの疑問がとける。

「しょせん、日本は世界の田舎なんだ。」という事実を思い知る。
田舎には、訳の分かんない習慣とか、しきたりとか伝統とか色んな物があるから、もうそれは仕方がない。

いやなら、どんどん、都会に行くしかない。田舎はあかん!東京行こう!という感覚で、日本はあかん!海外行こう!と、考える方が僕にとっては、いいことなのかもしれない。

ふと、どうして僕は、こんなプライベートな事を、公の場で公開しているのだろう、アホじゃないのか、と不安になる。

日記ってそもそも、ひっそりコソコソ書くものじゃなかったっけ。机の引き出しに鍵つけて隠しちゃったりなんかして。
なんでだろう。ううう、わからない。
やっぱり、僕は、アホなのかもしれない。
どうしよう。

「やりたいことをやる」ってなんだろう

「やりたいことをやる」ってなんだろうと疑問に思う。
「アートがやりたい。」と言って、アートの仕事につく事が「やりたいことをやる」ことなのだろうか。
だって、仕事って、誰かが必要としているから、需要があるから仕事になるだけ。
自分がやりたいことって、誰かやって欲しい事なのだろうか。

例えば僕のやりたいことって、散歩だったりする。
散歩して、風を感じていたい。とかいう、哲学者きどりのこと。
僕に散歩してほしい人って、たぶんいないから、これは、きっと、仕事にならない。
ちょっとアレンジしたら仕事になるかもしれないけれど、仕事になったら、嫌になると思う。

「やりたいことをやる」とかいう、妙なことを考えないで、
自分のできることで、誰かが必要としていることを考える方が、気分が楽なんじゃないかなあ。
「自分のやりたいことをやる」ことを仕事に求めるのって、そもそも変なことなのかもしれない。

って、僕に、何ができるんだろう。ううう

宿に戻り、シャワーを浴びて、2時就寝。

ABOUTこの記事をかいた人

現代アート好きドローンライター。日中英で影響力を持つ人物になるべく瞬発力を鍛える日々です。岐阜出身、大阪芸大卒。フィリピンで英語習得後、助成金を得て渡米、NYで修行しました。執筆実績:LIG,グノシー,DRONE MEDIAなど